2015年5月28日木曜日

行き詰まりが勝負どころ

最近、ひしひしと感じることがある。

表現をする人間というのは結局のところ、行(ゆ)き詰まりこそが土俵なんじゃないかと。

行き詰まりの来ないうちはまだまだで、自分の中にある引き出しからあれもこれもと出して考えに考えて、やれる事は全部やって自分の中にはもう何も材料がなくなってしまった・・・でもまだだ・・・という状態になってからが勝負どころ。この状況を迎えないことにはどうしようもないと、最近骨身にしみて思っている。


そういう時、私は外の世界へ探しに出掛ける。
若い頃は自由の身だからどこへでも行けたけれど、幼い子がいた時でさえ、音楽を考えていて行き詰まったら1歳やそこらの子を背負って散歩に出ていた。

そうやって歩いていると、土の匂いだとか風が通り抜けていく感覚や、道で遊んでいる子供達の声だとか通り過ぎる人の表情、私の背中に安心してくっついている子供のぬくもりなど、一つ一つが自分の肉体の中で曲へと導く断片を呼び起こしていく。

そしてそこから自分でも驚くような発想を、肉体が生み出してくれるという瞬間がくる。
これが産みの苦しみなのだけど、これがなければ「!!」の瞬間にはたどり着けないからやるしかない。
きっとこれは表現者だけでなく、研究者にも似た所があるんじゃないかと想像してみたりする。どうだろう?



何年も前に幼い子どもをおんぶして、メロディーを口ずさみながら散歩していた時のこと。
向こうから来る犬の散歩をしていたおじさんが「どうした?何か探し物か?」と心配してくれたことがあった。
落とし物はしていなかったけれど、確かに頭の中では探し物をしていたから、私がよっぽど真剣な探し顔をしていたんだと恥ずかしくなってしまった。
思い出すとその情景が何となくおかしくて笑ってしまうのだけど、人の表情を見て心配してくれるなんて、人は優しいなとしみじみ思う。

2015年5月21日木曜日

音楽と年齢

40歳を越えて、音楽をする上での年齢のことを色々感じることがある。

沢山の本番をこなしながら日本中を駆け回り、本番という経験の宝を手に多忙な中でその練習に明け暮れた20代と、

子育てをしながらむさぼるように楽曲の研究に没頭して、今までの経験が自分の中で結実していく感覚を手に入れた30代と、

そして40代になって、若い頃と今とでは作品を見た時の感じ方が大きく違ってきていて、自分の歩んできた道というか成熟への過程を感じるようになった今と。


肉体的な衰え(例えば反射的なものだったり計算能力だったり、持久力だったり)はあるのかもしれないけれど、その衰えてきたところを今までの経験で培ったものーーー例えば楽曲の全体像を瞬時に見て掴むとか、沢山のデータの中からカギになる所をパッと見つけるとか、そういう勘(勘とは、経験の積み重ねで磨かれて身に付くもの)や感覚的なところーーーは若い頃より優れているわけだから、そこを大事に磨いていくのがいいのかなと思っている。


ただ、年を重ねたから作品の読み方が深いとは限らなくて、内容によっては、若ければこそ深く読めることもある。
人間の能力とは不思議であり面白いもので、そして愛しいほどの短い時間で変化していく。


気が付けば、子供の頃から大好きな作曲家の享年を過ぎていることもある。
いつのまにか大天才達より自分のほうが年上になっているわけだけど、楽曲を研究すればするほどド肝を抜かれる秘密のトリックが隠されていることが分かって、あぁ〜やっぱり天才はすごいなと思い知らされる毎日なのだった。

作曲家以外でも、年齢の追い越し現象が始まっている。
宮沢賢治だって昔は敬愛するお兄さんだったのに、今は可愛い(でも偉大な)弟になった。



余談だけど、自分が年上だからというだけで若年者に対して「教えてやろう」というスタンスで接している人をたまに見かける。
幸い私の周りにはいないのだけど、こういう人を見かける度に「あぁ、この人は成長が止まってしまった人なんだな」と思う。
誰からも学ぶことができる柔らかな心でなければ何も学ぶことはできないし、その吸収することをやめた固い心では物事の本質を見つめることは難しい。

だからそういう人は年下の者に対して高圧的な態度を取ったり、ダメ出しをすることでしか自分を保てないのだろうと推測する。

柔らかな心をもって、何からも学ぶ人間でありたいな。

2015年5月16日土曜日

祈り

GWに張り切って遊びすぎてしまい、ようやくその疲れが取れた今日このごろ。。


「ワーグナーとユダヤ人のわたし」というドキュメンタリーを見た。
タイトルだけでドキッとしてしまう人も多いかもしれない。私もその一人だ。


このドキュメンタリーは2010年イギリスWavelenght Filmsの制作。
著名な番組プレゼンターのスティーブン・フライは、子供時代からワーグナーの音楽に魅了されてきた。

ドキュメンタリーの冒頭で、彼はこう語る。
「自分の愛する音楽を、その作曲者の劇場で鑑賞するのが私の長年の夢でした。
しかし、あのヒトラーもバイロイトに引き寄せられました。
私はユダヤ人であり、親族をホロコーストで失っています。
私が祝祭劇場のシートに座る前に、それが(バイロイトで鑑賞することが)間違いではないと確認する必要があります。」



あんなことに悪用されなければ、ワーグナーは19世紀で最も素晴らしい作曲家だと何の疑いもなく言われていたかもしれない。ショパンやリストさえ追いつけないくらいに。

でも誰かと比べるなんて馬鹿げているから、ワーグナーは特別枠ということにしておこう。だいたいワグネリアンという名称で呼ばれるようなファンが他の作曲家にはいるだろうか。あのバッハにだって、ベートーヴェンにだって、ドビュッシーにだって、コアなファンは山ほどいるのにワグネリアンのような呼ばれ方をすることはない。ワーグナーは特別だ。



このドキュメンタリーはよく出来ている。その魅力の一つに、進行役のスティーブン・フライの存在が大きい。
アーノルド・ローベルの絵本「ふたりはともだち」のかえる君のような容姿で、それでいてコミカルでキュートな性格で目が離せないのだ。

冒頭で「間違いではないと確信する必要があります」と言って彼はワーグナーの人生をたどる旅に出た。
そしてドキュメンタリーの後半では、ワーグナーのいなくなった時代に作品がホロコーストに利用される暗黒時代と向き合う。

アウシュビッツに収容されていて生還したチェリストに会いに行き、自分はバイロイトに行ってもいいのか問う。


悩み苦しんで、彼が出した結論はこうだ。
「私はワーグナーもバイロイトも、ヒトラーに譲るわけにはいかないのです。」

これを聞いた時、それまで感傷的に見ていたわけでもないのに泣きそうになってしまった。
そこで気が付いたのだけど、私も傷ついていたのだ。

私にとって音楽は神聖なものであり、何があっても「それでもこの世は美しい」と勇気づけてくれるのが音楽だ。
音楽は人が人を思いやる愛であり、希望であり、私は音楽で祈っている。
私が小学1年生の時の将来の夢は卑弥呼で、巫女になりたかった。2年生の頃からピアニストになりたいと思うようになって、それは音楽を奏でることで祈るということを知ったからだった。人を思いやる温かな心がこの世を満たすために私は祈り、弾いていたのだ。

だから、人殺しのために音楽が使われたことに心底傷ついていた。それをスティーブン・フライの「譲るわけにはいかない」という決心を聞いて「そうだ、譲るわけにはいかないよね」と胸が熱くなったのだった。


このドキュメンタリーに興味がある方にはDVDをお貸しします。ぜひおすすめですよ!

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