2015年7月9日木曜日

分人主義 中編

日本語の「個人」が一般的に広まったのは明治になってからで、英語のindividual(もうこれ以上分けられない)の翻訳として「個人」が生まれたらしい。

そして今私達が使っている意味の「個人」は戦後から使われるようになって、高度成長期後半からその意味合いが色濃くなった。その意味とは、個人にはそれぞれ個性があるべきで、その個性はどこに行っても「私は私」として変わらないでいるのが素晴らしいというもの。


でも実際には人が色んな人と接する時にはどうしても色々な顔になるもので、なのに近代の社会では何か悪い事のように言われてしまっていた。あいつは裏があるだとか、八方美人だとか、私の知ってる顔と全然違う顔があるとか。

そういう事を言って「私はこういう人間なんで受け入れてください」とか「オレはオレで通っている」というやり方では、他者とのコミュニケーションがなかなかうまくいかない。
たった1つの本当の自分を求めて悩んだり、本当の自分を探しに行くというのは実は危険な行為で、ドツボにはまる可能性があると思う。自分という性格は他者の存在なしに生まれることがないからで、自分の中だけに完結できるものではない。



「個人」を整数の1とすると、分数的に「分人(dividual)」と名付けて、自分の中には色んな分人が相手に応じているとみんなで認め合えば楽に生きられるんじゃないか。というのが平野の提案。同じような事を内田樹も言っていてこちらもなかなか良かったけれど、内田は「別人」という表現を使っていた。別人という言い方はちょっとなぁ・・・(笑)。

インターネットが普及した今の世の中では特に、「分人」の考え方を持っていたほうがいいと思う。ブログやFBによって、普段接しているあの人と画面の中のあの人は全然違うこともあると明らかになってきているから。他人の今までは知らなかった複数のコミュニティーを、今は垣間見られちゃう時代だから。


自分でも、色んな顔があることをやましいと感じたり「本当の自分じゃない」とか「演技してしまっているんじゃないか」とか思わなくていいと思う。そんなことはなくて、やっぱり状況や相手ごとに色んな自分になるというのは自然なことだし認めていいと思う。

2015年7月1日水曜日

分人主義 前編


平野啓一郎の『私とは何か』は2012年の出版。
この本は小説でもエッセイでもなくて、平野の提案というか、まぁいわゆる新書。

この人が小説を書く動機の半分は、自分の罹っている病気に効く薬を開発している研究者というようなスタンスで、常に自分自身が抱える問題を書いている。
そして同時に、自分に効いた薬は人にも効くんじゃないかという気持ちで更にダイレクトに伝えてきたのがこの新書だ。

平野は1975年生まれなので、バブル崩壊後に社会に出た世代には特に共感する所が多いかもしれない。私もその世代である。


私はこの本を読んでだいぶ心が楽になったというか、長年何となくやりづらいなぁと思っていたことから解放されたと思っている。


普段は積極的な性格なのに、海外に行くとだいぶ消極的な性格になるとか。語学をかなり勉強して行っても、母国にいた時のように冗談を飛ばしたり真剣に議論したりするのは難しくて、人格もかなり変わるというのはよくある話だ。

あの人ドSだよね、この人Mっぽいよねとか自分に見えてる側面で決めつけてみるけれど本当は誰でも、接する相手によって1人の人間の性格がSにもMにも変化していることとか。

共通の話題があって気の合う人といると陽気でお喋りなのに、共通の話題がなかったり価値観が違うとまるで喋れなくて陰気にさえなるとか。

もうちょっと個人的なことでは、仕事をしている時の自分と母である時の自分とで持ち味があまりに違うので、その2つが混ざる瞬間にはどちらも中途半端になってしまったりとか。



若い頃はこういう事がやりづらかったり気になったりしていたけれど、年齢を重ねるうちに何となく「まぁいっか」と受け入れられるようになっていた。

それでこの「私とは何か」の分人を知った時、ストンと腑に落ちてすっかり楽になったのだった。

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